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2005年06月26日

九州学生選手権結果

男子一部 九州大学 七位(22点) 女子 九州大学 ?位(2点) 福岡女子大学 ?位(2点)

お疲れさまでした。

文責 安部(平成16年卒)


投稿者 chiki : 16:58 | コメント (1)

九州学生選手権

二日目午後です。 一日目は晴天、二日目ははれたり雨が降ったりです。 平成16年卒 岩下君、梶山君、平成17年卒 小川君が応援にきてくれています。

文責 安部(平成16年卒)


投稿者 chiki : 14:32 | コメント (0)

2005年06月17日

千里蹴波行第四十五号掲載について

大変遅くなってしまい待ち望んでいた方には申し訳ありませんでした。原稿をやっと載せることができましたので、ご覧下さい。追記に千里蹴波行第四十五号に掲載されている記録などをリンクしております。                              3回生 池田祐輔


結果報告及び結果
現役部員紹介

投稿者 : 23:00 | コメント (1)

巻頭言

巻頭言
主将 上田 慎

2004年夏、私が主将を務めるシーズンが終わった。二年間に渡り六本松主将言、新主将言と書いてきたわけだが、ここではその集大成を書き残すことにしよう。二年前、六本松主将言において私は「水」について述べた。また一年前の新主将言においては「月」について述べたことだと思う。この「水」、「月」という概念を通して私はシーズンを全うしたわけだが、そこには部員、OBの先輩方の理解と協力を抜きには語り得ないものがある。今は私についてきてくれた部員、そして理解してくださった先輩方に感謝の気持ちでいっぱいである。今後は来シーズンに向けての水泳部を温かく見守ると同時に、さらなる飛躍を期待したい。
 今この瞬間を懸命に生きよ。おそらくその姿はあまりに美しく、そして自分以外の誰かの背中をそっと押してあげる不思議な力と、唯一無二の感動に満ち溢れているだろう。

投稿者 : 22:11 | コメント (0)

部長言

梅の盛りが過ぎ、春の嵐が吹くと、水泳シーズンはもうすぐそこまで来ています。水泳部の諸君は、もうすでに室内プールでの練習を、シーズンに向けた内容に整えながら行っていることと思います。昨年は、アテネでの日本人選手の活躍に胸躍らせ、歓喜に震えました。今年は、わが九州大学にも7年に一度のスポーツの祭典がやってまいります。いうまでもなく、今年は、国立七大学総合体育大会が九州大学の主管によって行われる年なのです。
 本年度、九州大学は、国立大学から国立大学法人として独立行政法人に移行しました。他の国立大学も同様のことです。国立大学法人とは、詰まるところ、研究や教育が大学法人の独自の判断や努力によって編成・実行されると同時に、その結果は外部機関によって評価され、それに応じて財政的支援の規模や内容が変わってくるというものです。経済学の用語では、大学の教育や研究活動が市場メカニズムのなかに放り込まれ、そこでの評価に応じて、淘汰されたり、支援されたりするということになります。中でも、評価の基準として重要なのは教育と研究であります。研究の方はさておき、教育において重要なことは、九州大学が日本社会あるいは国際社会において如何に優れた人材を送り出すことができるかにかかっています。優れた教育が優れた研究に支えられているということはいうまでもありません。大学の教室や実験室における学問に加えて、課外における活動とりわけサークル活動もそうした人材育成の重要な一環であります。水泳とは、水中のある距離を、ある決められた泳法によって如何に短い時間で移動するかを競うという単純なスポーツです。水泳部とは、そうしたシンプルなスポーツを真剣にやるなるなかで、先輩後輩の世代間、理系文型あるいはそれぞれの専門を異にする分野間において、人生の友や伴侶を得たりすることがあるという意味では、誠に広がりを持った活動組織だということができます。そうした活動のなかで、諸君は鍛えられ、癒され、励まされながら、成長していっているわけです。結果的に、専門の学問分野に凝り固まらない、幅広い人格と敢闘精神、粘りとやさしさを持った人材を世に送り出しているというわけです。
そのような意味で、今年はチャンスです。今年は、七大戦に向けて、練習をし、良い戦績を収めましょう。七大戦を九大で迎えられる機会に出会えた今年の現役諸君は大変幸運なことと思います。春先から夏までの日程を、七大戦を中心に組み立てながら、練習と試合をこなしていこう。必ずや良い結果が出てくるでしょう。そして、そのことが今年を精一杯がんばった諸君に一生消えることのない良い思い出として残ることを祈ることにしよう。
  2005年3月 九州大学水泳部部長 川 波 洋 一

投稿者 : 22:10 | コメント (0)

東京OB会

東京OB会
                             簑原 由布子、上田 慎       
平成16年3月13日東京OB会が行われました。先輩方の現役の頃の話や社会に出てからの話など、普段の学生生活では聞けないような貴重なお話を聞くことができました。我々現役も水泳部の近況を報告し、これからの水泳部のさらなる飛躍を誓いました。
幹事をしてくださった秋山先輩ならびに、お忙しい中出席してくださった先輩方本当にありがとうございました。

出席された先輩方のお名前は以下の通りです。また、先輩方からのコメントを掲載します。


卒年 氏名(敬称略) 卒年 氏名(敬称略)
S19 古屋 荘弐 H7 山野 純子
S22 西山 峰雄 H11 上村 和彦
S34 汐月 弘明 H12 秋山 典子
S44 江原 理郎 H12 波羅 愛
H2 西村 弘志 H12 清原 祐子
H4 山浦 真 H13 梅津 由理

古屋荘弐先輩 お招き頂いて大変嬉しい。皆さん若い人たちと話をし、ど
(S19年卒) のようなことを考えているかなど聞くのが楽しかった。皆さ
  んがんばって下さい。
西山峰雄先輩 会場設営はいつもご苦労願っていると思い、感謝いたしま
(S22年卒) す。
汐月弘明先輩 若い人が増えて結構。老年者が減ったのも寂しい。
(S34年卒)  
西村弘志先輩 去年より参加人数が減ってちょっと寂しかった。現役の頃
(H2年卒) の話を聞いてくれる人がいて嬉しかった。
波羅愛先輩 久しぶりに水泳部の近況が聞けて嬉しかったです。今年
(H12年卒) こそは旦那も連れ出そうとしたのですが失敗。来年こそ・・・

投稿者 : 22:08 | コメント (0)

大阪OB会

大阪OB会
谷岡 慎矢 、 三好 祐貴
平成16年3月13日に大阪OB会が行われました。初めてお会いする方々ばかりで始めは緊張していましたが先輩方が優しく接していただいたため、緊張もほぐれ楽しい時間を過ごすことができました。 先輩方のお話を聞き、改めて水泳部の伝統の深さを感じました。会はとても盛り上がりあっという間に終わってしまいました。特に二次会の先輩方の歌の上手さには驚くとともに、聞き入ってしまうほどでした。
幹事をしてくださった光武先輩、ならびにお忙しい中参加してくださった先輩方、本当にありがとうございました。また先輩方よりいただいたコメントを掲載します。


岸 康之先輩          
(S39年卒) 大阪OB会の会長を辞任します。後任は稲石です。OB会の発展を祈る。
三木 昭男先輩
(S39年卒) 今回は世代が適当にばらついた集まりで楽しいひとときでした。何人かの人達のメールアドレスを書いてもらいましたので私の水泳部のアドレス帳に追加します。今後のグループのやりとりに参加してもらいましょう。
稲石 鍈之先輩
(S40 年卒)
部誌の住所録をしっかり修正すること。後援会にもチェックしてもらいましょう。住所録にメールを登録しましょう。
新庄 彬先輩
(S41年卒) 
ようやく人が集まってきた気配。太田氏との会話、楽しかった。こんな会話はいいね。
太田 辰夫先輩
(S50年卒)
非常に楽しい良い会でした。幹事(OB/現役)ご苦労様でした。
明日は何処にいるのやら、でも九大水泳部のいる場所は仲間がいる場所です。多謝!多謝!
養父 規幸先輩
(S52年卒)   今日知ったこと
 岸先輩の大阪OB会出席率は100%である。
 太田先輩の娘さんが俺の娘の大学に四月から来る。
光武妻のほうが光武夫より給料が高い。
 光武夫は松嶋菜々子の夫に似ている。
 岡崎妻の現役時代は岡崎夫より速かった。  
 谷岡君はおとなしい人なのに、千里蹴波行44号の50フリーの歴
代に載るらしい。
 三好君は俺の娘と同級生である。 
 俺が教養部部歌を作ったことを誰も知らない。
野間 康弘先輩
(H4年卒) 昨年9月に結婚しました。私の前後の人が来てないのがさみしいです。古賀、北本、吉田必ず来るように。大阪OB会をもりあげていきましょう。
岡崎 智津美先輩(H7年卒) 初めて参加させていただきました。大先輩方のお話をお聞きできて、とても楽しいです。現役の方とも会えて、少しだけ昔を思い出しました。来年はもっとたくさんの方に参加していただきたいです。夜景の見える場所で、楽しい時間を過ごせました。
光武 陽子先輩
(H10年卒) 千里蹴波行は待ち合わせにとても便利でした。去年に引き続き参加させていただきましたが、思い出話ができたり、社会勉強ができたりと楽しい時間がすごせました。部員増えてるようでうれしいです。
光武 浩太郎先輩(H11年卒)
 二年連続幹事をさせていただきました。今年は人数が増えレベルアップしました。ふがいない幹事ですが来年はもっともりあげていきます!
青木 大輔先輩
(H11年卒) 二回目参加しました。去年より人数増えてうれしいですね。
大阪OBのみなさん、また集まりしょう。

投稿者 : 22:06 | コメント (0)

卒業生雑感

雑感
8回生    大渕 重人

 僕は長い間、学校並びに水泳部におつとめしておりました。たくさんの人達と出会って、パチスロで生活費を稼ぎつつ、麻雀で後輩から小銭をたかりつつ、この8年間を過ごしてまいりましたが、この度見事に卒業することになりました。これも先輩方並びに同輩、後輩達の代返があってこそです。このように厚みのある大学生活を全うしました。これを見習い、何年かかっても学部だけは卒業して下さい。現役水泳部員のみなさんはしっかり練習に勤しみ、麻雀の方も頑張って下さい。それでは、さようなら。

雑感
7回生    山口 徹郎

長かった学生生活がようやく終わります。
(最長老にはなりそこねました)
今まで本当に大勢の方々に迷惑をかけっぱなしでした。
(迷惑かけられもしたからお互いさまか?)
これからもきっと多くの人にお世話になると思います。
(まだまだ迷惑をかけるつもりのようです)
水泳部での7年間で水泳の技術面はもとより、人間関係でも多くのことを学びまし
た。
(水泳に集中してなかったとも言う?)
卒業後もこの経験を活かしていきます。
(人前でしゃべるのには慣れたから、次はこのプヨったお腹をどうにか・・)
最後に、これを読む皆さんに幸おおからんことを。


雑感
5回生     小川 真司

今振り返ると4年間は、いや留年したので正確に言うと5年間はあっという間でした。月日が経つのは本当に早いものです。現役で泳いだ1、2、3年のシーズンは毎日泳いだし、合宿の時にはあのボロ研修所に皆で泊まり寝食を共にし、試合のレセでは皆で白波でゲロって仲良くanother worldにトリップしたことも度々ありましたね…数々の恥ずかしいあんなことやこんなことも今となってはいい(?)思い出です。同輩にも恵まれ幾度となく迷惑を掛けました…気分屋の次男坊で扱いにくいと思われたこともあるでしょう、酒に酔うて

突然違う国の言葉を話し出し困らせたこともあったでしょう。そんなわがままハチャメチャができたのはあなたたち同輩が皆ナイスガイの集まりだったからです!!この場を借りてThank you very much!! そして、まだ現役でいる後輩たちに…部活をやっていられる期間と言うのは非常に限られた短い時間です。大学生は部活以外にもたくさん悩み事を抱えると思います。大いに悩もう、時には憑かれたように泳ぎに打ち込んでみよう、少しはすっきりするはず!悩むのは生きている証拠なのだから!!“止まない雨はない”のだから。明日はきっと晴れると
信じて踏張ってみましょう!! 泳げ魚たち!残された時間は短いぞ!!

雑感
5回生    吉賀 大輔

 水泳部に入部して5年間!あっという間の出来事でした。その間に楽しいことや辛いこと、本当にたくさんの事がありました。この雑感を書くにあたって、それらの思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡っています。しかし辛かった事も苦しかった事も今となってはどれも大切で大事な思い出です。
 私はこれから社会に出て行きますが、この5年間で学んだことを発揮し、どんなときも前向きに明るく楽しく進んでいきたいと思います。
 最後になりましたが、水泳部のみんな長い間ありがとう!特にこんな自分にずっと付き合ってくれた同輩達、本当にありがとう!また一緒に騒ぎましょう!

雑感


4回生 梨木 大輔   

 私が水泳部に入ってからの4年間、楽しい事、つらい事、いろいろありました。特に幹部になってからは悩みも多く不安でした。しかしそれ以上にすばらしい数々の経験もしました。最終的な4年間の感想は「水泳部に入って良かった」の一言でした。気の合う先輩方、後輩達、同輩達に恵まれ、一生語れる経験をしました。特に幹部時代の九国公では一生分の涙を流した気がします。その時いた人達は一緒に感動どころか引いていたかもしれません。2,3時間も泣き続けていたんですから・・・。当時は後になってかなり恥ずかしがっていましたが、今は胸を張って当時を語れます。語り始めたら今でも涙が出てしまうほどです。本当に水泳部は最高です。
 最後になりましたが迷惑をかけっぱなしだった私を面倒見ていただいた先輩方、自分が先輩なのに色々とサポートしてくれた後輩達、最も長い間苦楽を共にした同輩達、本当に有難うございました。

雑感
4回生    船迫 彩

 この前写真の整理をしたのですが1、2年の夏の自分は小さくなっていたことをしみじみ感じました。今ではもう肉まんです。去年まではたまちゃんと呼ばれていましたが最近は陰でプーさんと呼ばれているようです。かわいらしいですね。

雑感
4回生    水野 伸和

 水泳部に所属する事早4年・・・、もう卒業していく立場となってしまいました。入部したての頃、「変わった人達が多い所だな」と思っていましたが、後から入ってきた後輩達もみな変わってました。単に変な人、アツイ人、黙々と泳ぎ続ける人、酒で人が変わる人・・・、脱ぎたがる人、心当たりのある人、いるのではないでしょうか?
 このような人達の中にいると、真面目だった自分にも少しずつ影響がみえるようになりました。違う大学に行っていたり、水泳部と出会えたりしていなかったら、今の自分はなかったでしょう。それがいい意味であるかは別にしても。
 このくらいでは書きつくせないくらい色々なことがありましたが、自分はあと2年は箱崎で大学院生してるんで、たまにはプールをのぞきに行こうと思います。その時には話しかけてやって下さい。顔見知りなもので・・・。それでは時間に余裕のある大学生活をこれからも楽しんで下さい。今までありがとー。

雑感
3回生      能塚 彩

 今思えば、3年間、本当にあっという間でした。この3年間、決して楽なことばかりではありませんでした。しかし、嫌な事も、つらい事も乗り越えることができたのは水泳部のおかげだと思っています。
 水泳部に入って、たくさんの人と出会って、いろんな事に一生懸命になって、多くの思い出をもらいました。人生は「モノより思い出」。これに尽きると思います。3年間、すごく楽しかったです。水泳部のこと、忘れません。ありがとうございました。

投稿者 : 22:02 | コメント (0)

後援会会長挨拶

ご挨拶

                       後援会会長 酒井 照夫

 平成16年は日本列島にとって大きな自然災害の年でした。猛暑と豪雨に見舞われ、台風の上陸回数は過去最高とのことでした。追い討ちを掛けるように新潟県中越地震では多数の被害者を出しました。年末の忘年会の挨拶は、皆さん例外なく真っ先にこの災害の話で始まりました。この年はアテネオリンピックが開催され、日本中がメダルラッシュに沸いたというのに、誰もオリンピックのことには触れませんでした。大災害の前にはスポーツの話題は二の次、三の次になるようです。
 福岡でのOB会ですが、8月の現役主催のOB戦には私はずっと参加していません。代わりに今年は4年に1回のオリンピックイヤーOB会に参加しました。詳しい報告は別にあると思いますが、今回は福岡市近郊の神湊で、昼は希望者によるゴルフ大会、夜は玄界灘の新鮮な魚でうまい酒を飲もうという計画でした。私は夜の部だけでしたが、50歳前後の元気者の集まりで楽しい会でした。毎回参加したいのですが、4年に1回なので次の約束は出来ません。 恒例になった暮れのOB忘年会ですが、今年はなんと楢崎弥之助さん(S20卒)がひょっこり出席してくれました。ご挨拶をお願いしたところ、気軽に引き受けてくださり、議員生活のことや水泳部の昔話など貴重なお話をしてくれました。若いOB諸君にとっては貴重な体験だったと思います。毎年来てくださるようお願いしました。
 九大水泳部は来年(平成17年)7月に開催される七帝戦の主管校になりました。北九州の小倉文化記念プールで行われますが、部の財政が厳しい折何かと出費が多い年になりそうです。毎年先輩方の寄付が少なくなっているように感じますので、現役部員には来年はしっかり集めるよう指導しました。できる範囲内で結構ですからご協力をお願いします。
 現物はまだ見ておりませんが、「千里蹴波行」掛け軸の修復と複製はうまくいっているとのことです。この原稿は福岡県西方沖地震(平成17年3月20日)の余震が続く中で書いています。これまでメールでの交信範囲では、水泳部関係で大きな被害の情報は入っていません。このまま収まってくれることを願っています。

追記:原稿投稿後に訃報が入りました。昭和23年卒の井上則之氏が平成17年4月6日逝去されました(西山峰雄氏の情報)。長い間闘病生活をされていたと聞いておりましたが、お会いした時は病気のことなど少しも話してくれませんでした。井上さんはひとりで「九大水泳部70周年記念部史」の編集をしてくださり、そのお蔭で記念部史が出来たようなものです。その後お会いした時は西福岡病院(福岡市)の広報誌編集をしているので、君も何か書いてくれんかと言われたことがありました。その広報誌「生きがい」4月号に偶然、相羽堯氏(旧福高同級生)による「豪儀な生き方~本紙編集長井上則之君のこと~」という随筆が載りました。井上さんの人柄が偲ばれるので、一部引用させてもらいます(相羽氏の了解を得ました)。「心から尊敬している豪儀な友人の話をぜひ聞いていただきたい」で始まり、「マルチ人間の彼は、絵筆も文筆もおしゃべりも、人を楽しませ、笑わせ、感心させる芸の持ち主です。」と続き、最後は「若い頃から、井上君は、大きな組織の指導者として慕われてきた豪傑です。一日も早い回復を祈るや切であります。」と結んでいます。井上則之さんのご冥福を祈ります。

投稿者 : 21:58 | コメント (0)

平成16年度OB会忘年会

平成16年度OB会忘年会
報告:平成15年卒 秋永 浩二、高原 善広

平成16年12月30日(木)、恒例のOB会忘年会が例年通り『さつま黒千代香』にて開催されました。約40名のOB・OGの方にお集まりいただき、大変楽しい会となりました。
予定より開始時刻が遅れてしまい、早くご来場いただいたOB・OGの方には大変ご迷惑をおかけしました。会のほうは、まず今回始めて出席された楢崎先輩(S.20年卒)にご挨拶をいただきました。続いて後援会長の酒井先輩(S.41年卒)のご挨拶の後、部長の川波先生(S.51年卒)に乾杯の音頭のほうをとっていただきました。ありがとうございました。

以下に、ご出席いただいたOB・OGの方のコメントを掲載いたします。(敬称略)

S.41年卒 酒井照夫
福岡のOB忘年会は平成卒の若い人達の集まりと思っていたが、今年は何と楢崎弥之祐さんが出席され驚きました。84才との事でしたが、その若さに驚きました。
楢崎さんも若い人達にかこまれ、「今日は来てよかった。」とおっしゃっていました。
隣に座っていましたが、私も来てよかったと思わせるような人柄と話術の持ち主です。

S.45年卒 山下謙二
色んな年代の水泳部員の人と楽しい会話ができた一時でした。ただ心が痛いのは、部の財政がピンチで今後の部活動にも支障をきたしそうだということです。懐かしき思い出多き水泳部の先輩たちの後輩に対する志ざしを現金で示してください。

S.50年卒 岩城志郎
OB訪問を積極的にすすめて欲しい。
本日は現役時東京でお会いした楢崎弥之祐先輩にお会いできてうれしかった。
来年の七大戦、頑張れ!

S.54年卒 浜崎修
久しぶりに参加しました。水泳部が財政難だということを聞き、2年前に開業した我医院と同じなのかと複雑な心境です。
お互い、つぶれないよう頑張りましょう。

S.55年卒 谷口陽一
5月からプールのすぐ隣の(株)産学連携機構九州に出向し、大学の技術移転の仕事を手伝っています。たぶん水泳部に最も近いOB・・・
最近は、昔を思い出して健康管理のために市民プールに通っています。
学生の時に水泳にやってて良かったなと本当に思います。
近くなのでプールに今度寄りますね。

S.57年卒 小川芳明
すぐ近くの東区に住んでいながら現役諸君にしてあげられるのが後援会費の振込みだけなのを申し訳なく思っています。年に1回自分が一番輝いていた(?) 頃の香りに触れたくて、この会にやって来ます。来る年、水泳部に栄光のあらんことを祈ります。

H.8年卒 大高裕子 (旧姓 島野)
久しぶりに若いパワーを頂きました♡ 来年1月に主人の実家である香川に引っ越します。近くにおこしの際は遊びに来て下さい。田舎なので、とにかく泳いで暇つぶします!

H8年卒 水本博 & H.9年卒 水本千帆 (旧姓 藤永) & 美登里 (6ヶ月)
久しぶりに会えて楽しく過ごせました。
来年は授乳施設がある所にして下さい。

H.9 年卒 進大介
仲間を大切に。目標を持って、水泳頑張ってください。

H.9年卒 田畑龍生
久しぶりにみんなに会っていい刺激を受けました! 水泳がんばります~。

H.10年卒 上田里美
久々にたのしかったです。いっぱい泳いでがんばってください。水泳部万歳!!なんてね。

H.10年卒 内省二
楽しいOB会をありがとうございました。

H.10年卒 大場光芳
水泳部のパワーをもらった。まちがいない!!
やっぱり楽しいね。水泳部、最高!!

H.10年卒 羽田浩一
今日は仙台―札幌―新潟―名古屋―福岡を飛んできました。今日は妻と一緒に来ました。久々に楽しいですね。水泳頑張ってね。

H.10年卒 吉浦朱美
来年はOB会や遠泳に参加したいです。

H.11年卒 青木大輔
みんな子供が出来て時代を感じます。
今日は楽しかったです。ありがとう。
みんな大阪においで。アオキマンがまってるばい。

H.11年卒 田尾周一郎
卒業します。

H.11年卒 立山淳子
同期の半数が集まって、それも奥様や彼女を連れてきてくれているので、嬉しいです。
こーやって“仲間”がふえていくのっていいですね。

H.11年卒 中村千永美(旧姓 賀集)
あみづれで来ました。今回は先輩にいっぱい会えてよかったです。

H.11年卒 末次晶子
私も結婚したいな・・・

H.12年卒 清原祐子
そのうち結婚します。いつかは子供つれてきます。なんとなくご期待。

H.12年卒 小山宏之
10月に結婚しました。来年は子供つれてきます。乞うご期待。

H.12年卒 篠崎勉
オレも結婚したいな・・・

H.14年卒 中村起敬
今日は同期がたくさん来て、楽しい!!
我が娘もかわいいと言われて大満足です!!

H.15年卒 秋永浩二
今回幹事をさせていただきました。
たくさんのOB,OGの方々に来て頂きましてありがとうございました。
私も卒業してからも水泳への情熱を忘れないようにしようと思います。

H.15年卒 高原善広
 今回幹事をさせていただきました。たくさんの方にお集まりいただき、楽しい会とすることができました。ありがとうございました。
 来年から働きます。また参加します。

H.15年卒 安川千春
初めて参加させていただきましたが、先輩、後輩大勢来られていて、とても嬉しく思いました。会も楽しかったし、これからも機会があれば参加させていただきたいと思います。水泳部の活動をOGとして少しでも支えていければいいなと思います。
今日はありがとうございました。

H.16年卒 安部智貴
幹事様お疲れ様でした。
色々な方とお話でき楽しかったです。

H.16年卒 山内崇
初参加でした。新聞で見覚えのあった楢崎弥之祐さんが水泳部の先輩にあたると知った時は驚きました。再度記事を読み返したいと思います。七帝では微力ながら現役に協力し、大成功を目指します。

H.16年卒 梶山孝
 今回初めて参加しましたが、色々な代のOBの方がおられて貴重なお話をたくさん聞かせて頂きました。来年は幹事を勤めさせて頂きますのでよろしくお願いします。

H.16年卒 簑原由布子
昨年の約束(?) を果たそうと札幌から帰って参りました。
みなさんと博多弁でたくさんお話できて本当によかったです。

7回生 山口徹郎
 ようやく卒業&就職です。
現役(?) なのに、ここにくると元気が出ます。
勤務地が大阪の予定なので、来年以降は来づらくなるかと思いますが、何とか時間を作って参加したいです。
先輩・後輩の皆さん、これからもかまって下さい。

3回生 河内有
先輩方の水泳部への想いを感じることができる有意義な会だったように思います。それは借金完済へ向けた努力の仕方だとか飲み方だとか、実に多岐に渡るもので今後の参考になりました。

2回生 磯野裕章
さまざまな世代の方とお話することができ大変楽しかったです。部員同士の絆の深さも見せてもらった会でした。

2回生 中谷祐也
 とても緊張していたのですが、先輩方、やはり九州大学水泳部なだけあり、お話がほんとうに面白かったです。今年、7帝戦よろしくお願いします!

2回生 森崎雄一
 とても楽しい時間を過ごすことができました。機会があれば是非また参加したいです。


会の終わりに、山下先輩(S.45年卒)にご挨拶をいただきました。最後に皆で嵐雲となり閉会しました。
このOB会忘年会は毎年12月30日、場所は『さつま黒千代香(博多区駅前3-10-2)』でほぼ固定されております。まだ参加されたことのない方もお気軽にご参加ください。
次回の幹事は、H.16年度卒業生にお任せしています。連絡先は以下のとおりです。
皆様のご参加をお待ちいたしております。

次回幹事 
大庭英範 (H.16年卒)
〒812-0053 福岡市東区箱崎4-33-13-103
    Tel: 090-7929-4013
E-mail: ohba@ence.kyushu-u.ac.jp
梶山孝 (H.16年卒)
〒812-0053 福岡市東区箱崎4-34-7-102
    Tel: 090-8401-8843
E-mail: tkajiya@chem-eng.kyushu-u.ac.jp

投稿者 : 21:43 | コメント (0)

先輩寄稿文 S51年卒 中村 崇先輩

第3回五輪年OB会報告
幹事 S51年卒 中村 崇

・ 日時:平成16年8月12,13日(朝食後解散)
・ 場所:宗像市神湊の玄海旅館(魚が新鮮で好評だった)
 108年振りにギリシャのアテネで開催されるオリンピックの開会式前日に今回のOB会は開催された。4年前に行われた久住(筋湯)での第2回OB回で再開を誓った面々がまた集まり、旧交を温めた。
 お盆の三ヶ月を避けて直前の12日を前回同様設定したが、残念ながら平日であったので、前回より少ない出席者だった。それでも多忙な中を、後援会長の酒井先輩(41年卒)をはじめ、19名の働き盛りの面々が集合してくれた。
 メインイベントである12日夜の宴会は、酒井先輩のご挨拶で始まり各自の近況報告を発表した。例えば、福岡市役所勤務から市内の小学校校長に人事異動した取違君(53年卒)や、NTT社員ながら、九大箱崎キャンパスのプールのすぐ横で仕事をすることになった谷口君(産学連携機構九州勤務、55年卒)などは驚きだった。
 現在歯科医を開業しながら、実家が写真屋という事で、大きな撮影機材を持ち込んでスタジオさながらに撮影会をしてくれた浜崎君(54年卒)ありがとう。また参加が難しい中、急遽駆けつけてくれ途中参加してくれた渡辺君(53年卒)ありがとう。
 では次回は北京オリンピックの年、2008年。「全然変わらんな」という挨拶で再会できるよう健康に気をつけて過ごしたいものだ。

参加者・酒井照夫(41年)、穴井雄次郎(50年)、一木正男(50年)、岩城志郎(50年)、太田辰夫(50年)、中村崇(51年)、養父規幸(52年)、山下弘綱(53年)、浅井武(53年)、衛藤俊博(53年)、森山清治(53年)、取違達郎(53年)、中山善弘(53年)、渡辺雅彦(53年)、浜崎修(54年)、飯田規寛(55年)、谷口陽一(55年)、津田秀行(56年)、小川芳明(57年)          以上19名

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先輩寄稿文 S50年卒 岩城 志郎先輩

千里蹴波行
                      S50年卒 岩城 志郎

この文章は70年記念号に寄稿したものと一部重複する。そのときと状況が変わった。九大本学(箱崎地区)と教養部(六本松地区)が一箇所に統合されるという。場所は西区の元岡。移転先周辺のハード(交通網)は整備されつつあるようだが、移転するソフト(人間の心)の準備はできているのだろうか。現役の頃の記憶を整理するのも悪くないと思う。昭和46年(1971年)から1~2年の話。
掛  軸
 水泳部の掛軸といえば、いわずと知れた「千里蹴波行」。これが水泳部のために書かれたものでないとしたら、皆さんはどう感じるだろうか。私はビックリ仰天して「そんなぁ」と叫びそうになったものだ。
「筆を振るったのは第5代総長松浦慎さんご自身だと聞く。文字の意味から『波を蹴っているのは脚ではなくボートの櫂』である!ちょいとした手違いで水泳部室に置き忘れていた掛軸が、水泳部の所有物になってしまったんだ。早とちりした水泳部員がいたようだ」と。当時の部長だった故中村先生から伺ったと思う。何人かが一緒に聞いたと思うが、同席者は思い出せない。
しかし、私が掛軸は水泳部のものと信じる理由は大きく三つある。
第一に、「千里蹴波行」の意味である。波を蹴るのは脚であって断じて櫂などではないと今でも信じている。櫂は漕ぐものと思う。
二つ目の理由は部室の位置である。仮に部室を間違えたとすれば、近くだったはずだ。教養部では部室はボート部と隣り合っていたが、たとえそうであったとしても部室を間違えることはないだろう。
第三は、歴代の先輩が掛軸を他部のものと誤解し続けたとは思えない。部誌の表紙を何十年も飾っているのだから。
いずれにしろ、掛軸は水泳部のものとなる運命だったから、過去・今・将来に亘って水泳部の宝である。
その掛軸が当時ひどく痛んでいた。そこで、梅本さん(48卒主務)と六反さん(49卒主務)が相談して補修した、らしい。
掛軸補修は「ケガの功名だった」と六反さんはおっしゃる。それは次の理由からだ。
その頃、部にとって火急に解決しなければならない問題があった。コースロープの新替えである。コースロープが劣化。亀裂が走り割れていた。接触して傷を負う部員も出ていた。
対九工大の定期戦は短水路の本学プールで行われていたので、安全上、解決せざるを得なかった。当時は短水路で水泳大会を開催することが当たり前だったと思う。九大プール本学も教養部もいずれも短水路だが最新鋭の設備だったと言われる。最新鋭設備に劣化したコースロープは相応しくない。水泳部の「コースロープ新替え」は、そのような事情から生じた急務だったのだ。
主務の六反さんはロープの補修費用を確保するために本学と交渉、先輩からの寄付も募って奔走された。
その甲斐あって寄付金が予想以上に集まった。有効に使う方法として掛軸整備費用に充当したのが実態らしい。その補修は30年ほど前のこと。
今年は2度目の補修が完了した。そのいきさつや経費については現役の寄稿に譲るが、原本と複製版の2種を一挙に補修・作成したと聞くから、原本は大事に保管して将来に繋げるよう配慮してほしいと願う。
以 上 

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先輩寄稿文 S31年卒 中溝 忠夫先輩

随想
S31年卒 中溝 忠夫

 投稿について連絡があった。昨年から通算し三度目にあたる。最初の連絡は九月十一日付けになっている。9・11はNY貿易センタービルへ自爆テロが突入した悪夢の記念日であり、私も心臓へ何かを打ち込まれた感じになった。「何か書かねば…。」と考えたのも束の間。検査入院だの手術のための入院だのと病に押され投稿を諦めた。その失礼に三度目の連絡を戴き、辛うじて投稿の栄えに浴する。

オレゴンからのそよ風

 三月二十日午前十時五十三分、福岡市及びその近郊に居られた方は、御存知と思う。私達は思いがけぬ大地の洗礼を受けたものだ。私も例外ではない。座って何か書いていたので揺れは感じなかったが、近くに大きな爆発音が轟いた。しかし立姿で台所に居た家内は「随分揺れた。」という。私の家では家具が倒れた訳ではなく、花瓶などが落下し、並べてあった書籍が倒れた程度だった。家の内外をしらべてみたが大きな損傷とて無く亀裂を発見した程度だったのは不幸中の幸いか。余震は三月末現在、福岡市近郊でも感じられるものが時折あるが大きいものは無い。
 今回の地震に、全国各地の従兄弟たち、下の部下などから見舞いの電話・ファクスを戴き感謝感激している。わけても家内から、「○○さんからお電話ですよ…。」と手渡された受話器から聞こえたのは小学校時の旧友○君の肉声。私は彼が多分横浜か東京あたりから電話して来たものと思い一応訊ねたところ「あー今、オレゴンから……」と返事が返って来た。オレゴンからなら時差も考えねばならぬだろうし、よく早々と日本のしかも九州で地震が起きた事を知ったのだろうと驚き、私の身を案じて電話までかけてくるとは……と感心した。
 ○君は小学校時代、私の家の近くに引越して来た。私の家は昭和二十年の東京大空襲の際焼夷弾を直撃して焼失したが、彼の家は彼の母と彼の姉が奮闘して延焼を喰い止めた。当時、彼の母上は音楽学校の先生(現在の上野音楽大学教授)をしておられた様だ。彼の家が焼け残ったので、私と母・弟の三人が、しばらく○家の御厄介になった。
 ○君は、東京の私立大学に学び卒業後は、証券業界へ進む。就職初期の頃は全く知らぬが、終わりに近くになって主に外資関係を取扱う部課を経て、諸外国勤務を経験したのではなかろうか。地球上各地の絵葉書に、彼からの「元気かい…」という投げかけ的な呼びかけが躍っている。私がそれに応じられる分の返事が書けぬのが残念だ。退耺後のこと、「今はベンチャービジネスをやっている。」と言っていたが、よく判らぬ。オレゴンに今居るのも日本の現在の実情に呆れ果て、今では却って寒く雪も多いだろうオレゴンへ行って了ったのだろうか。それにしても有難く、嬉しくて涙をこぼしそうになった。

ある同窓会にて

 昨年六月、私は出身の小学校の同窓会(昭和二十年卒業者)に出席した。この同窓会に出席するのは実に半世紀を越えて初めての体験で、いささか心配はあった。
 私の出身の小学校というのは、東京の目黒と五反田の中間にあり、品川区立第三日野小学校(卒業後当時は国民学校と稱した)という。深い谷底に横たわる感じなので、所謂円形のコースというのが無い。直線だけで、しかも百メートルは無い。かつてはコースの傍らに二十五mのプールがあったが、それも埋立てられたのか今は無い様だ。同窓会が始まる迄には多少時間の余裕があったので、小学校の周囲をうろついてみた。学校のそばには、今では池田山公園となっているが、私が子供の頃は西村という野村証券の重役が構えていた豪壮なフランスのお城と日本のお館を折衷した様な庭園付きのお屋敷があった。その庭園は私達が子供の頃は、教練を受けて来たらしい。そのお屋敷のお兄様から、戦闘訓練的な仕草を何彼と鍛錬されたことを思い出した。私が六年間を送った小学校は、一学年が三個のクラスで編成されており、一組は男子、三組は女子、そして二組は男女混合成組だった。私は二組に居た。個人的に特に希望して組を移ることはなかったが、先生が病気などで長く休まれた場合は、二組の男子は一組と、女子は三組と合併することが度々あった。昭和十九年、私たちが六年生の時、全国主要都市への空襲が激しくなるばかりで、東京でも蜜某した家屋の強制疎開や、小学三年生以上の学童を縁故疎開か集団疎開かで地方へ分散を始めた。私は熊本の親戚へ縁故疎開を考えたが、危ないとの事で集団疎開に追求した。集団疎開の宿舎は、東京都下の御嶽町の御嶽山の山裾に連なる斉館分舎だった。斉館分舎というのは御嶽山詣でに来る人々が宿泊する旅館の様なもの。勉強は山の上にある斉館分舎に学年ごとに集まり、寺子屋式に授業を受けた。一同で声を掛け合い自ら山越えして薪や野菜を背負い運んだこともある。さてその“五十年ぶりに出席した同窓会”だが、JR目黒駅近くに稚叙園という料亭があり、そこで行われた。フロントに「第三日野の同窓会に来たものですが‥‥」と言ったら、大きな円形テーブル二個をしつらえた部屋へ案内してくれたが、既に到着し席に着いて何事か話している人達も居た。男性ばかりのテーブルは、多分一組出身の人々だろう。私はもう一つの、女性ばかりのテーブルの方に着いた。周囲に二組出身の方が何人か居たかと思うが、実のところ兎にも角にも昭和二十年まだ子供の時分に別離して以後全く初めて顔を合わせた訳なので、誰が誰なのか判別がつかず、弱ったことになったと思った。今にして思えば誰と何を語ったのかもよく記憶せぬ始末で残念なことだった。ただ一つ男性ばかりのテーブルの方から、一人私近づいて懐かしそうに話しかけてきた男があった。記憶を辿ればその小学校から私と彼の二人だけ、一中(現在の日比谷高、当時の府立第一中学)へ進み一緒に勉強したことがあったっけ。私と彼の話も、開会を告げる誰かの声で遂にとぎれて了った。二組出身の男子が誰も来て居なかったのは残念だった。この後の経過がどうなってるのか記憶に残らず、多分逆上したあまり半世紀あまりのフィールド・バックは困難だったに違いない。学年同窓会終了後、二組だけでクラス会でも…と一応考えたがこれもどさくさに紛れて了った。
 この同窓会開催について終始御連絡戴いた二組のかたには、会場でも御礼を申し上げたつもりだったが、まだ申し足りなかったやもしらぬ。私は運命とは申せ、小学校卒業後、東京を離れざるを得ず、現在九州に存在する身であり乍ら、今なお小学生時代を忘れ得ずして生きている。また機会に恵まれれば是非参加させて戴きたいものだ。

スペイン・ポルトガル紀行

 「…兒孫ノ為ニ美田ヲ買ワズ…」とは西郷南洲翁の名言。私は“美田を買う”どころか生きるのがやっと。家内と謀り「借財は決してしまい。子孫に借りを引き継ぐことなどしない。ただし貯金にはげみ将来へ託すことなど一切せぬ。」とおかしな我が家の経済原則を樹立し、暇と資金は旅行に廻す。最近では寄る年波には勝てぬもの、身体がついていかぬので旅行には疎遠となって了ったが、若い人よ!元気あるうちに見るべきものは見ておくものだ。
 今のところ最後の外国旅行となったスペイン・ポルトガルについて少しふれる。イラク戦争開始前後から空港の持込荷物のチェックが厳重になった。スペインへ行くには、羽田を出発後、ロンドンでスペイン行きに乗換えとなるが携行手荷物を広げて検査を受けねばならなかったのは、全く初の体験だった。
 スペインの首都マドリッドに深夜到着。翌朝、聖家族協会を観る。天才建築家ガウデイの傑作だが修築中で、完工まであとどの程度かかるは判然としない。ラ・マンチヤでは印象的な白い風車が紺青の空に聳え美しかった。このあと訪れたグラナダはイスラム文化が残っており、私の見たところヨーロッパ文明とイスラム文明の接点という感じだ。それはアルハンブラ宮殿にも見ることが出来る。更にアンダルシア地方で白い壁の家の密集に接する。その夜はフラメンコ・ディナーショーを観た。旅行のしめくくりは、ヨーロッパ大陸最西端のロカ岬で、岬の先端にはヴァスコ・ダ・ガマ一行のモニュメントがあったのも印象的だった。スペイン・ポルトガルを私なりに総括したところ 1、未開発の土地が多い。 2、草原・森林が比較的多く見られる。 3、住民①良い意味で感情的である②体格が良い③夫唱婦随と見る。 4、世界遺産が多い。 5、キリスト教とイスラム教の融合或いは、ヨーロッパ風とイスラム式の融合ではないかと見られる建築物・構造物に接する。となった。
 今後また機会と資産に加え健康さえ許せばどこか探求したいものだ…と思っている。

ある歯科医師の“学歴詐称?”

かつて私が勤めていた所には歯科医は居られず診察の結果指定された歯科医へ往っていた。私の歯が上顎・下顎ともに痛み出し、手に負えなくなり、診察を受けて指定された歯科医へ行ったのが、そもそも間違いだった。
 指定された歯科医の玄関にはアメリカのどこかの大学の卒業証書らしいものが額にいれ而もライトを浴びて掲示されていた。通常の患者は多分見た丈で圧倒されるに十分だろう。どこの大学生なのか、DENTAL関係の経歴も踏んだのか確認すべきだったが、痛みでそこまで考え及ばぬ。診察の座席に腰かけ暫らく待つと金縁の眼鏡を光らせて“先生”が来た。私の口を見るなり「ああこれは悪い。抜きましょう。あとは義歯にします……」とばかり上下とも何本か残った歯を抜いて了った。その夜は抜歯の痛みで、その病院へ電話までかけねばならぬ始末だった。
 その歯科医院は、義歯等製作の作業が病院の裏手に在り、フル回転していた様だ。私の上顎に辛うじて残っていた何本かは、残らず抜かれて、義歯が冠され、今なお容易に外れ弱る。現在に至るまで他の歯科医にお願いすること三度。造り替えても、まだ完成していない。下顎は、ブリッジが大きく巾を占めたが、
近々取替えとなる。
 私としては、初めその歯科医の門を潜った際に、米国大学出身の卒業証書は一見したが歯科医師のライセンスは確認していない。その歯科医周辺の患者で私と同じような被害を受けた人が数多く、やはり同じ疑念を抱いて居ると聞く。しかし歯科医御本人は、すでに他界して居られる現在“ことの本質”をこれ以上追及しても結果は出まい。もって瞑すべしというところか…。

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先輩寄稿文 S22年卒 西山 峰雄先輩

井上則之君を想う      
工学部応用化学科   S22年卒 西山 峰雄            
              (旧九州帝国大学、旧制福岡高校,旧制福岡中学卒)  

 2005年4月6日井上則之君が亡くなった。5年以上前に喉頭癌を発見、大手術後癌と仲良く生活していますという年賀状を頂いていた。亡くなった日も、奥様が今日はこれで帰りますと、入院先の病院を出られて2時間後に呼吸困難に陥り亡くなったと聞く。タフで気概に溢れた男だった。喉頭癌の発見以来もう5年以上になろうか、かれは大手術後に癌と仲良く暮らす術を覚え、毎年の福高青陵会総会、九州寮歌祭には、どちらも会長であるから必ず出席し、舞台までは車椅子で来ても、会長挨拶はちゃんと起立して挨拶し、共に歌い共に歓談した。 旧制福岡高校創立80周年記念祭も車椅子を使わずに旧制福高校庭(六本松)の乱舞像前の記念碑除幕式も人手を借らず立派に見事に青陵会会長として、除幕の作業を遂行した。記念碑除幕式の挨拶も朗々と、除幕作業も整斉と成し遂げた。病に負けない偉い奴である。彼は旧制福岡県福岡中学から福岡高等学校、九州帝国大学経済学部へ進んだ。小学校は名島だったか?福中時代、3年生になった時5年4年生から応援団長になる人がなかったので、応援団長を誰も引き受けないとは何事ぞ、上級生が引き受けないなら私がやりますとそれから3年間、彼はラグビーの試合のある日は1回も休むことなく春日原や、九大グランドに3年間足をはこんだ。一方、4年生になった時、一緒に話していたら、俺水泳部に入ろうかという。人数不足気味だったから即OK。何でもやるが、背泳とクロールやるかと、両方始めた。意外に早くタイムは向上してリレーメンバーに入るほど1学期で成長し、中学5年生になると正選手、正リレーメンバーとなった。旧制高校時代は昭和18年7月以降は正規の試合は開催が許されず、市内対校戦と練習試合のみが非公式に開催されただけであったのでこの時代の公式記録はないが、短距離の正選手となった。戦時繰上げ2年で卒業。九州帝国大学に昭和20年4月に入学したが、即日兵役に取られ、今の平和台、旧舞鶴城の歩兵第46部隊(旧名十二師団二十四聯隊だったか?)に入営、6月19日福岡空襲の時は兵舎も燃えたが、昼は市内の後始末に出動し、福高にも立ち寄った(手記後掲)。終戦、復学、昭和23年4月卒業、最初の就職は何処か知らないが、後に東京に出て食糧公団から全糧連へ。米の総配給元と言ったら良いのか米の総配給元と言ったら良いのか良くは知らない。福岡に戻ってからは県の米の食販連会長とか、食糧ビル社長とか勤め、退職後は福岡市の社会福祉協議会長、福岡民生事業連盟などに関与したと聞く。旧制福岡高等学校の同窓会、青陵会の会長も8年前から押されて就任していた。今回の葬儀は本人の希望で身内だけで翌7日通夜、8日葬儀が行われた。市の民生連盟の方から偲ぶ会の話もあると聞くがが未定である。密葬に近隣の同級生8人だけが参列したと聞く。我々としては九大水泳部70年史を纏めてくれた恩人である。50年史が60年史となり、70年史も発行危ふいとの話から当時の今田盛生部長を動かして体制を組直し、発行に至ったが、これに対する貢献は井上君の指図に負う所が大きい。人に出来ないところは井上君自身がやって与えていた。彼なくしては70年史の発行は出来なかった。改めて深く御礼申し上げたい。
この際に80年史、90年史という10年づつの小史を造っておくこと、それらを纏めて100年史を作ることを忘れぬよう要望しておきたい。川波部長、宜しく頼みますぞ。
資金面でも、今又水泳部は金欠病のようだが、終戦後インフレ時代は職を持たない者には過酷な時代であった。そんな時に先輩も金が余っている筈がない。自分たちで東京までの交通費を稼ぎ出そう、この計画も言出し兵衛は井上君であった。理科系で金に弱い我々は電蓄操作係を務めたが、ダンスパーテイを企画し成功、遠征費を稼ぎ出したのであった。70年史p.66の舞踏会の手帖の発案がそれである。発案者、実行指揮者は二年生の井上君であって上級生ではない。御蔭で日本学生選手権水上競技全国大会に出場できたのであった。世事すべてにわたって着眼点がユニークであり、説得力を持っていた。理科系の我々、文科系の先輩上級生もすべて彼に従った、我々よりもはるかに洞察性、先進性に富んだ見方、立案のできる男であった。小泉純一郎君に井上君の爪の垢でも呑ませてやりたい気持である。彼との最近の同窓会や九州寮歌祭の写真を掲げて冥福を祈ることとしたい。
 平成9年8月青陵会会長を畑中二夫氏より引き継ぐ。旧制福岡高等学校75周年行事、この後から80周年までの間に青陵会会長となる。会長在任期間は7年余か? 九州寮歌祭第37回2003年平成15年10月か11月西鉄ソラリアホテルで開催、

写真後列、左から男(氏名不明)、松永夫人、松永英剛さん(旧制福岡高校19回昭和17年9月卆、水泳部、医師)。坂本昇さん(20回昭和18年9月卆、水泳部)、相羽堯さん(22回昭和20年3月卆)、松永夫人と相羽さん以外は福高水泳部員。前列 西山峰雄(21回昭和19年9月卆、水泳部)、井上則之(22回昭和20年3月卆、水泳部)。平成9年5月創立70周年には同窓会青陵会会長は田中二夫氏であった。この後、井上則之君に代わったと思う。

投稿者 : 21:35 | コメント (0)

先輩寄稿文 S22年卒 西山 峰雄先輩

第16回インターハイを泳ごう会報告
                     S22年卒 西山 峰雄(福岡高校)

 昨年の泳ごう会は平成16年8月27日(金)に開かれました。昭和11年完成したこの東京大学プールで戦前のインターハイ水上競技は開催されて来ました。甲子園球場の一塁側スタンドの下にあった25m室内プールとともに数少ない室内プールでした。半地下のボイラーつきのプールですが、私たちの泳いだ1942年昭和17年7月下旬は戦争中で燃料節約でボイラーは焚かれず、冷たい思いをしました。でも、こっそり焚いていただいたのか、試合の時はそれほど冷たいと思いませんでした。半地下の冷たいプール、此処で再び泳いだのは、1947年9月と1988年、46年後でした。1947年9月、神宮プールでの日本学生水上選手権大会が終った後、出場していた東京、京都、九州の三帝国大学水泳部で帝大戦をやろうと話が纏まり、競泳が実施されました。水球はやったかな?、記憶に薄いです。私に審判やれと言われてやったことないよと断ったようには思いますが。ボールも貴重品でした。敗戦の秋、コンパも開けなかったかな。ビールも無かったか?記憶は薄い。これが学生時代最後の試合でした。!!
 1988年はインターハイ泳ごう会が前年から開かれ第2回から参加しました。1994年眩暈で不参加を除き、続けて出席しています。年1回ですが60年前の相手と泳ぐのは楽しみです。しかし次々と相手が消えるのは寂しい事です。そのうちにこちらに順番が廻ってくるのでしょうが。 平成16年8月27日例年のように泳ごう会が昭和11年ベルリンのオリンピッックの年に竣工した東京大学25m地下プールで開かれました。このプールは旧制高校インターハイOBには若い日に対戦した懐かしいプールです。此処に老OB集まって旧交を温める事は最高の楽しみ、一番若いメンバーでも74歳ですが、どうやら20回まで続けられそうな気配です。しかし、事務担当の人々がだんだん泳げなくなってきて心配です。 たとえば、写真は旧制高等学校水泳部門の歴史インターハイの記録「つわものどもが夢の跡」を書かれた衣笠恵士さんで、私と昭和17年7月東大プールで800m自由型の予選を隣コースで争った仲です。お医者さんになられ、世界マスターズ大会には例年参加され、日本選手団の医学的要求はすべて満足させてこられましたが、ご自身は今は泳がれなくなりました。人数も減りつつあり、何時まで続けられるか、後数年、せめて20回まで行けたら嬉しいなという感じです。 老いたる体にむりが掛らぬように、平成20年第20回が最終回と私は予想を立てております

投稿者 : 21:34 | コメント (0)

先輩寄稿文 S22年卒 西山 峰雄先輩

湘南オープンウオータースイム2004報告  
 S22年卒 西山 峰雄

      2004年のオリンピック水上競技の感想 と   
  湘南オ-プンウオータースイム2004 70才以上男子で金メダル獲得
九州帝国大学(工)応用化学科 昭和22年卒   

昨年は九大水泳部としてはまづ何よりも九州学生選手権水泳競技大会の一部昇格を祝おう。着実に実力を付けて行って欲しい。部員の努力に感謝します。嬉しかった。

過去九連勝の記録を持つ九州国公立大会もある。健闘を祈ります。

九大水泳部の鹿屋体育大学合宿で柴田亜衣さんに顔なじみの人もいるのかな?アテネで女子800m自由型に優勝して、もう大学の近くの道路脇に金メタルの記念碑が立てられたと新聞に出たから、今年の合宿に参加する人は見る事が出来る。さらに彼女の着ている水着は下記のカササギタイプの水着だそうで、既に彼女はこのデサント社に就職したと聞く。ほんとかな。北島もミズノ専属でspeedoブランド水着使用、これは鮫の肌タイプとか。こういうことで昔と違って優秀選手にはスポーツによる収入が許されるようになり、よい気分かなと思う。水との摩擦係数が小さい繊維と織り方も改良された生地を使って結果がよいと言う。ソープも同じような物を使っているらしい。今度は日本でカワセミの羽根が水中でも濡れていないことを研究して、羽毛の上に水に濡れない小さい突起がある方が水との摩擦係数が小さい事を見つけて、水着の上に同様の突起を付け特殊処理して成功したと新聞に出た。聞けば、毛ムジャクラナ脚の毛は剃り、水着、帽子着用は必須事項となる。水着の肩とか胸とか腹とかサイドとかで繊維の織り方、方向も変えるという、今九大の水着はどれかな?値段も高いそうだが。又、小さな体で優勝した女子マラソン野口はるみさん同様、高地訓練で呼吸回数呼吸量を減らしても耐える訓練が水泳にも他のスポーツにも広がるように思う。しかし、これは年取ってからどんな影響が残るのだろうか?良い事ばかりだろうかと気になる。医学部の皆さんご意見は如何ですか。

話は変って、50歳以上の九大水泳部OBのメールリスト30人余の皆さん(昭和34年~43年卒)お元気のようで何よりです。昨年5月までそのメールリ ストの存在を 知りませんでした。又”岩城志郎(S50卒)”さんを初めとする10 歳若いグループ(昭和47年~)の存在も知りました。 年1回の千里蹴波行では幅が広すぎて話が合いませんか。マア年寄も仲間に入れてください。2005年で80才です。時々パソコンミスで迷惑おかけしますが、今後とも宜しくです。 バンコックは栗並さん初め九大水泳部の国外拠点ですね。 三木さんが中国秦皇島(万里の長城の東の始まりの海岸)に行かれて ここが第2の拠点になると思ったら、引き揚げて来られた。タイOB会に続いて、中国OB会、イランOB会(片岡博様) --- などが出来るかと、考えただけでも嬉しいですね。しかし韓国と中国が状況急変で気になりますね。 私も皆さんに負けないようにと思っていますが、何よりも記憶力の低下が一番の問題点になってきました。今日やる予定が朝目覚めて 頭に浮かばない、何もなかったなと又寝ると、遅刻するよと起され、慌てて飛び起きるけど、まだ思い出せない。痴呆かアルツハイマーの始まりですかね。昨2004年金婚式を迎え,今年3月で80才になりました。昨年から右膝痛が起こり始め、駅の階段の上下が右膝伸ばしたまま片足づつ動作するので、もうラッシュアワーは敬遠しています。服用する鎮痛剤ミオナールやオステラック、モービックは昼でも夜でも眠くなって私にはダメ、もっぱら、ボルタレン・ゾルやレイナノン テープなどの外用薬に頼っています、膝痛にグルコサミン、ヒアルロン酸を3日間呑んだら、右脛のアンコールワットの古傷が痛みとともに腫れ上がり、あわてて中止する始末、昨年から外国の科学史学会は敬遠しました。ビルマ独特の星座の発表を nice report と褒めて下さったフロリダ大学の陳広諭教授、韓国の羅逸星教授には悪いけれども迷惑かけています。ご自分の自家用車持って来て乗せてくれたり、他の出席者に気を使わせていけません。遊びのアンコールワット行きでは脛に怪我したり、同行者に迷惑かける厄介者になって来たからです。

 水泳なら良いのか?今全力で泳げるのは25mまでです。それもノーブレッシングで 19秒台に落ちました。狭いプールの中だけではなくて、トライアスロンの練習用みたいな(怒られるかな)囲いのない場所での水泳、昔の遠泳とは違うんだというのがあるのを知りました。(そういえば九大体育部のホームページ20ほどある部の中に水泳部が出ていないのはどういう訳ですか?トライアスロン部は出ているのに話が無かったんですかね。ミスで落とされたのですかね?こういうミスはせっかくの部員勧誘の機会を自ら潰しているようなものです、厳重注意を!)。元々はトライアスロンの練習用に考えられたみたいですが、いずれはオリンピック種目に入れるだろうと下準備は進んでいるそうです。昨年は鎌倉市役所のチラシ置場に 第1回湘南オープン・ウオーター・スイミング出場者募集のビラが50枚もおいてあり、早速高田俊生さんに一緒に出ませんかと声を掛けましたが都合悪く私一人で出ました。片瀬の東浜海水浴場がゴール(片瀬東浜とは場所は江ノ島の対岸の腰越と江ノ島大橋の北の根っことの中間です。地図を見てください)、スタートは競技の距離で異なり、10kmは逗子から、5kmは由比ガ浜、3kmが稲村ヶ崎、1.5kmは七里ヶ浜の4ヶ所からスタート、長くなるので地図や規約、申込条件などは 下記の笹川スポーツ財団のホームページを見てください。SWIMという雑誌を見るとオープンでなくラフ・ウオーター・スイミングというのも平塚とか九十九里浜、沖縄などにあります。波があるところでしょうね。ホントのトライアスロン練習用か、そうでもないのか、未だ私には分っておりません。

 昨年は1.5; 3, 5, 10kmの4種目でしたが、2005年は2.5kmと6kmと10kmの3種類で参加費はそれぞれ5000円、7000円、13000円と約66,40,30%の値上げです。ほかに初心者向けに800mの集団遠泳が江ノ島ー片瀬東浜間に設定されました。参加量¥1000と安いですが、競争ではなく、30人ずつ位の集団での遠泳です。ほかに今年は2m以下のサーフインパドル、2m以上未満のサーフインパドル、2m以上のサーフィンパドル、とか、市販品の足ひれ、ビーフィン、モノフィンを足につけてのレースとか軽い遊び的要素が取り入れられました。しかし、昨年の私のタイムでは失格となる1km地点まで30分、2.5km競技90分以内という制限タイムが設けられ、私のタイム、1.5km 80分では諦めざるを得ない。制限時間を延ばすように提案しましたが、長時間の体温低下を懸念する旨回答があり、一寸がっかりしています。みなとみらいのOWSはきつい制限タイムは設けていないようで、そちらに乗り換えましょうか。昨年実施できなかった10kmに申込んでいた人は10000円で良いそうです。競泳と違って非常に高いですね。もっとも日本或いは世界マスターズ水泳大会はクラブあたり基本年会費6000円必要ですから個人加入では同じ位かもしれませんが。(今度九大水泳部OBメールでマスターズ入会という話が出ていますが、九州以外で開催される会に1人とか、2人だけとか出ることは出来るのですか? 出来るのでしょうね)(横浜市で開催する「横浜市民マスターズ水泳大会」は横浜市民であれば一人1種目600円だけで何種目でもOK,クラブ費は不要、横浜プールで開催、安いですね。ただし、これは横浜だけのマスターズで、市外、国内、海外のマスターズには参加できません)

このOWSというのは千里蹴波行42号(2002)のp.34-40に、吉川茂樹さん(S-57)が第9回世界選手権体験記の中で福岡國際OWS、10km、25kmの医療救護やドーピング・コントロールDoping controlとしての経験談や医療救護のお仕事を紹介済みなんですね。ここのはOWSも世界の基準で10km、25kmと長い距離でした。ドーピングはシンクロや水球にも適用するんですね。知りませんでした。有難うございました。

OWSは年に数回あちこちで(東京お台場、九十九里浜、横浜港内、平塚、浜松、中国、四国、沖縄など)開催されていますね。あちこちこんなに多いとは知りませんでした。Sasakawa sports foundationのhp, http://www.ssf.or.jp にも例が出ています。この中に8項目ほどの説明(outline, information,entry, course, Q&A, records, link)があり、このrecordsの中に完泳者全員の名前、タイム、年齢などが発表されています。私は最初誕生年を昭和と思われて(大正生まれの参加者は2人だけだったのです)年齢を65歳とされ60歳代の最下位(12人くらいだったか)で完泳賞の白銅メタルしか貰えず、表彰式にも呼ばれませんでした。1.5kmは参加者345名中、9名リタイア、完泳者336名中最下位のタイム1時間21分29秒でしたが、この種目で70歳を越えた人は私だけだったので70歳クラスでの金メタルを20日遅れで郵送して頂きました。3kmに80才の人がいて2時間01分41秒でした。早い人ですね、同一の種目を選択していたら私は銀メタルでしたね。この年齢確認は前日の登録説明会の時にも行なわれず、健康診断書の 提出だけはうるさく言っていましたが、申込書の確認はallsports社に任せきりで確認していませんでした。表彰式で の賞状の読み違い、 小学生に50万円の賞金を与えるというのはミス訂正の放送もありま したが、転記誤りから来る入賞順の訂正はパソコン上で数字を直しただけで、 ここを直したという修正通知はいまだにありません。賞金アナウンスミスなどのお詫びは他に allsports 社が出しているランナーズ10月号増刊号 SWIMのNo.7(10月11日発行)のp.62,63に小さい私の写真も入った報道記事が出ています。「西山さんだけのミスではない、他の人にもミスがありまして----」と言って、8ヶ月経っても、そちらの人とはまだケリが着いていないのかなと勘繰っています。10kmは逗子沖の風が20m/sと強くコースを表示するブイを繋ぐ錨というか錘というか設置しようとしてもズルズル引っ張られて固定できない、コース設定が出来なくてはレース不可能と言うことで中止になりましたが、1.5kmの方は北風で風雨の中、1時間ほど遅れてスタートしました。前日快晴に恵まれた5km,3kmよりも気温は10度低く19℃、スタート前、雨の中で20分ほど待たされ薄ら寒く、私はアンダーシャツを着て待ち、衣類は先に陸路送られたので、そのまま泳ぐことに なりました。ゴーグルは必要性を感じないので使わず。左目は白内障手術の結果不良でレンズが合わせられない状態、お医者様は網膜の手前に赤色針状物質の膜があるせいだ、乱視は両眼とも毎日クルクル変動する。もっと悪くなったら手術してその膜を引っ張り出してあげる、右も左も目はこの2年で近視が遠視に変化して来て落ち着かない状態だが白内障はまだ辛抱出来るでしようと言うお見立てなので通常使用の眼鏡を輪ゴム4本で結んで泳ぎました。今の人は贅沢?ですね。度の入ったゴーグルを掛けないのを見下げるようです。ゴーグル付ける値打ちは一つおいて隣より遠い先のコースを泳ぐ相手の位置、スピードを観察するには好都合でレース作戦上も有利で私も現役時代、度の付いた水中眼鏡があればいいなと思っていたが、遠泳には要らないと思います。目に海水が入って痛いとかいうなら別だが、近頃の解釈は変って来ているのでしょうか。私にはそれよりも、本来の視力そのものがドンドンオカシクなり、白内障手術後、半年後とにメガネの度数を新しく換えても新聞の文字はルーペなしでは読み辛いですね。脳自体の記憶能力、処理順判定能力は劣化の一途を辿っています。マァ泳ぐには差し支えなしか?水温は25℃で好適でした。丁度新月の大潮で(今年2005年は新月後、月齢10日、長潮かな?潮汐表入手済)スタートは干潮予報の1時間前、潮の流れは最高速度の時刻は過ぎて澱んでいたと思いますが、何しろ初めての場所だから、よく分らない。事前に釣船屋、サーフィンの若者、海水浴小屋の親父などに聞き込む.腰越漁港の事務所に問い合わせるなど情報収集に努めましたが、江ノ島より西は満干いずれの場合も強弱はあるが、西から東へ流れる。しかし、東側は其の時々で東流、西流いずれになるか分らない。というような話。クラゲは8月になると黒潮に乗って博多湾には8月上旬に来るから、福岡では盆前から海水浴は行かせない人が多い。関東地方は1週間遅れと私は見ていた。笹川財団に何でこんなクラゲの押し寄せる時期に遠泳など普段は沖に出ない人を集めての行事をやるのかと聞いたが明確な返答はありませんでした。海の家業者に聞くと、クラゲの時期に南風の時は押し寄せてくる。北風の時は江ノ島の方に吹き寄せられて腰越方面は安全と言う話、ついでにこの辺の底は岩が多く、深さは5mまで。関東大震災前は岩の海岸だったが、地震で2m程地盤沈下して砂が溜って来たのでこの辺は海水浴場に適するようになったとのこと。そしてイスラエルで発明されたクラゲ被害防止剤「SAFE SEA」が日焼止効果剤も入っており(spf値、日焼け止め効果は15と30の2種) (日本ではソニー・プラザで販売)(イスラエル製118mlが2000円位)があり、これを求めて使ってくださいという。私も好奇心と実用を兼ねて買って塗って泳いだが、この日は北風でクラゲは江ノ島に吹き寄せられていたのか、前日8月14日は南風でクラゲの被害者もいたらしいが、我々15日は一匹も姿を見せず大丈夫でした。この薬はカツオノエボシとか刺すクラゲを擂り潰した成分が有効成分でこれを塗っておくとクラゲが触れても仲間と思って刺さないということらしい。これもホームページがあり、もっともらしい説明と、使用時の写真や、実験効果など皮膚の写真などが出ています。この日私はレンズ付きフィルムの水中撮影用を持参していたが、フラッシュが付いていない。雨の中のスタート風景は撮ったが、泳ぎ始めたら水中では光量不足でありチャンスは無かった。予備調査として、前7月の新月の大潮時に合わせて、腰越の義経が追い返された満福寺や小動岬(コユルギ岬)の上から小動港の水深、コンクリートブロックの配置や岩場、海の色、漂流物の方向など観察したが、沖の東西方向は十分に深く心配なかった。2005年も8月15日開催だがこの日は14日が長潮、15日が若潮で、小潮から中潮に移って行く日で午後の干潮が殆ど引かない特別な潮の日である。昨年はこの協議時間中、大潮で強く引いたままだったが、今年は14日は満干が少ない日、15日は中等潮位より満ちてくる日になっている。   この小動岬は高々30mくらいの高さだが、非常に展望が良い、後で鎌倉のこども風土記を見たら幕末江戸湾にお台場、海堡を作った時、ここにも大砲を設置したと記録にある。風、波は東南方向から来ると強そうだが、西南の風は江ノ島が盾になってくれる。むしろ、スタート時ホンの50m位進んだところでクロールの手先が底を掻きそうな浅瀬が海岸に平行に幅5mほど海岸線に沿って長く存在し、危険に感じた。日本水泳連盟(FINA)のオープンウオータースイミング競技規則(Open Water Swimming Rules 8章101條から成る。各章は)

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この競技規則はうまく水連の資料を写す作業が西山に出来ませんでした。必要な方は水連に申し込めば、コピーして実費で送ってくれると思います。

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OWS1 オープンウオータースイミングの定義 競技役員-----2.3職務 3.52  4 スタート10 4.11 まで

 OWS 5開催地 5.10までOWS 6レース 6.16までのOWS 

7レースのフィニッシュ 7までOWS 8チームw)種目 8.2まで 章     101條まで  

------------------------------------------------------------------------ では干潮時に水深50cmあることとなっている。ギリギリで合格か?大潮の干潮時の1時間前で潮位は干潮最大時刻ともう同程度に引いているのだろう。思えば海岸に向かうサーファーが波頭を捕まえるところが此処らしいと後で気が付いた。干潮時に近く潮の動きが止まっていたのか、汐が東西どちらに流れているかは私には判断できなかった。1.5kmレースでは315人参加、皆早いのにビックリした。小動(こゆるぎ)の港のコンクリートブロックを右に見てスタートしたが、ブロック先端を過ぎて 第1コーナーまで300m以上あったかと思うが目標が無く、私はドンドン右に曲がった。後ろを向いて方向調整するが、すぐ又右を向く。波高20cm位で大したことは無いと思うのに振り向くと七里ヶ浜でなく、稲村ヶ崎が見える。右膝痛の為右足の蹴る力はからっきし無いのだろうか?100mくらい行ったところで後ろを振り向くと10人もいない様子。300人はクロールでさっさと行ってしまった。スタート地点の七里ガ浜は江ノ島の陰に入っていないので南東からの潮流をじかに受けるのか、波はあるし第1ブイに達するには随分時間が掛かったような気がします。200mくらい出て横 には遅い人、緑帽子の高齢者、要注意者には1人づつ赤いカヤックに乗った10代のオネイチャンが付いてくれた。そういう指示が出ていたらしくゴール後周囲にはカヤック要員は20人以上、屈強な男性サポーターは40人以上いたと思う。陸上勤務の世話役も多数、話を聞くとこの地区の海難防止救助グループいくつかに、働きかけがあり、個人は無償で参加しているとのことだった。団体には謝礼金でも出しているのだろう。総数80人くらいいたかしら。「第1コーナーもまだか、もうやめて上がろうか、まだ1割も来ていないね」というと「大丈夫ですよ、疲れたら、私に掴まりなさい」という。掴まえたら 失格の筈である。「イヤ掴まらない」と宣言してカヤックの後ろからプックリしたヒップをいい眺めと洒落ながら手だけで泳ぐ。膝は痛くなるといけないから波のまにまにヒラヒラさせるだけにした。1kmのチェックポイントを60分以内に通過しないとそのポイントで失格、乗船させられる。どのブイがそのポイントだか分らない。腰越漁港の東西に長い防波堤の西端の入口灯台よりは手前と分っているが、水面すれすれの眼ではいろんなブイが20ほど見えてどれがどれだか分らない。しかし、このプックリは随分励みになった。泳ぐ前は、波40cm以上だったら途中で上がろうと思っていたのですが、人間年取っても異性の応援は嬉しいものだ。ナントカ最後まで泳ごうという気になった。この子はゴール前、足が底に付いた時の写真の右側に写っている可愛い子です。やっと第1コーナーのブイを右に廻ると波は気にならない、第2行程の半ばに来た時に奥さんがトラックの馬鹿でかいチユーブを浮袋にした夫婦連れ(子供さんも いたらしい)に追い抜かれました。後で成績表を見ると父親と 男子は記録が出ていましたが大きい浮き輪を使った奥さんの方は 浮力の大きい助けを得たというので着順には記録されなかったようです。 浮力や推進力のある足鰭や小道具・浮輪・気泡入りの浮力のあるウエットスーツは使っても良いけれど着順にはカウントしないという説明が前日の登録会説明会でありました。浮力の無いウエットスーツや水着は差し支えなしです。先ほどの子連れ夫婦の場合奥さんは浮袋使用の為、着順やタイム記録は出ていません。完泳賞のメタルもダメかな?貰ったのかどうか分りません。これ位は呉れるのかな?  第2行程の半ばくらいに来た時、左脚のふくらはぎが少しピクピクと来た。筋肉のつりかけである。大したことは無いが先が長い、用心して筋を引き伸ばすこととする、プックリオネイチャンに脚が吊りかけたから一寸潜るよと断って、頭を沈め左膝を伸ばして足首を上に引っ張り、親指を上に捩じ上げる。1、2回で済むと思ったが、どっこい、10分間に10回位引っ張ることになった。この間に前記の親子連れに追抜かれてしまった。 1kmのチェックポイントはまだかと聞くともう過ぎましたよという。エー過ぎた? 何処にあった?チェックタイムの1時間はどうなんだろうと聞くと防水腕時計を見て、47分でしたよ。大丈夫ですよ。と励ましてくれた。コーナーブイは角錐、チェックポイントは背の低いブイだったのだろう、分らなかった。疲労はさほど感じない。これなら泳ぎ通せるなと思った。しんどかったらチェックポイントでOKパスでもカヤックに乗るつもりだったが第2コーナーまでのろのろ泳ぐ。1時間30分がゴール限界タイムであるが、つらなければ大丈夫とふんだ。第2コーナーを廻るとゴールが見える。腰越港への船の出入りは少ない。船にはこの時間遠泳のことは通知が行っている筈だ。又、釣船は午前 5時出発、10時頃には帰港する。海水浴場のモーターボー トもこの時間は稼動を控えたらしい。腰越港入口前後は少し水温が低下していたが (1度C位)岸に近づくにつれ元に戻った。津村から流れてくる神戸川(名はごうどがわ)の少量の 川水の影響だと思う。後日談だが藤沢駅前のスポーツ店(藤沢市の海難防止救助など後援している人が店主)で聞いたら、先に書いた西浜の潮流の話が東西正反対だという、さっぱり分らない。鳴門や明石は渦を見て分るが、速度が緩い所では局所的な流れもあって、渦を巻くほどではないところらしい。この1.5KMコースでは離岸流を起こす程の川はない、離岸流は定説が無いのだろうと勝手に推測している。

昨年と今年の江ノ島地区の潮位のグラフを潮汐表からコピーして掲げておきます。昨年は大潮、今年は小潮。要するにあまり潮流は強くないと考えて良さそうである。皆さんも年寄りの冷や水に参加しませんか。津屋崎の寒中水泳よりは楽でしょうよ。(うまく添付できていなかったら私のPC未熟のせいでごめんなさい)

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ここににタイム測定のRCチップのことを記載します。0.1か0.05秒の 精度で計測出来るそうで、チップ1個の値段は1500円くらい。RCチップは直径6mm、長さ50mmくらいの黒い棒(プラスチックだろう)です。中にICチップでも入っているのでしょう。これを手か足に巻きつけるベルトに差し込む場所があって腕時計のように足や腕に巻きつける。これを身に付けて検知装置の電線を備えた地点を通るとRCチップの番号とその時の時刻を0.1秒か0.05秒の精度で記録できるというもので今はトラック競技やマラソン、駅伝などの競技に使われて、昔のようにストップウオッチを持った審判員がゴールポストに群がって測定するという現象は見られなくなって来ていると言う。今回のRCチップは㈱ランナーズ経由㈱レックス(目黒区)からオランダのメーカーランナーズイベントコンピュータシステムと日本国内独占使用権を1995年結び、2003年にランナーズトルソータグ(胴体タグ)を開発しこれは日本陸上競技連盟で採用されたと書いてあります。プールのタッチ壁には向きませんね。この㈱ランナーズは大会事前準備、事前製作物、大会当日運営も引き受けており、かなり手広くやっているようです。又出場者や雑誌の為の写真やビデオ撮影も引き受け、写真は出場者にも販売2L版にL版1枚おまけにつけて1500円+送料で商売もしています。私も買いました、その写真がここに掲載したものです。しかし。運営は頼むほうも十分に監査しながらやらないと今回の私のケースのようなミスを起こしますね。しかし、こういう新測定法を今回私は初めて見ました。参加選手は身に付けるだけだが、コースのゴールには今回の場合は地上に検知する電線を這わせ、その上にゴムシートが被せてあった。JRのスイカなどのように ICチップが密封されたものだろうか。選手ナンバーさえあれば今回は機能は足りるのだろうから、安価にできそうだ。しかし波打ち際から検知装置のゲートまで砂浜を50mほどを走れば数秒短い時間が記録できたなと感じました。検知装置(電線の上に黒い30cm幅のゴムシートを黄色の大きな鉄の門の間に敷いてあり、これをまたいだ瞬間が記録されるらしいがどんなものかも知らなかったので、来年からは上陸したらヨチヨチながら砂浜を走ろう。今年は知っていても練習していない、耐久力が無いからもう走れなかったですね。

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上陸ゴールしてからが前の人より20分以上遅れたどん尻だから、すべてに置いてけぼりで、着替えに困った。まず、小屋で2個残っていた完泳賞の1個ををくれた。テントに入ると有料脱衣場が指定されていたらしいが、その案内がない、案内人もいない。着替え済ませた出場者は出て行ってしまった。雨はかなり降るし、テント内は敷物無く、足から砂が離れない。脱衣場はかなりの雨の中、袋を背負って少なくとも50mは歩かねばならない。諦めて露天の消防ホース的水栓から水を浴び、テント内に戻り、砂が付着したままの足で水着を脱ぎ、ズボンを穿き、靴を履き、水着類を網リュックに詰め、外に出る。表彰式を開始するから受賞者は表彰テントに集合というアナウンス。遠くから覗いて見ると、個人表彰から団体表彰と続きメタル、賞状、賞品が渡されている。賞品の中にイスラエルのクラゲよけの薬やお菓子もあった。しかし、驚いたのは、小学生クラスの表彰に賞金50万円とか!30万円とか言う賞金が読上げられた時であった。中止になった10kmリレー団体賞の表彰状用紙に小学生の部を間違えて書き込み、そのまま読み上げたものらしい。後で訂正されたが、お笑い種であった。式終わってオールスポーツ社の女性記者から取材を受けた。SWIM誌10月号p.80ページに写真入記事が出ている。3kmには80歳の人がいた)私の生年月日の大正、昭和の取り違えとか、間違いは私一人ではないと事務局はぼやいていたが、アレコレ初めてのことで、しかも財団はオールスポーツ社に完全に下請けさせて、笹川スポーツ財団側はチェックをしていない、前々日の選手登録会でも健康診断書の提出ばかりやかましく言って、参加者から提出した内容の転記内容は全くチェックされなかった。この辺に大きなミスがあった。文書管理不十分のそしりを免れない。オリンピックなら大変なことになっただろう。表彰式ですべての公式行事は終わり、15時から後夜祭が開催される。出席して様子を聞きたかったが、ノロノロ泳ぎとは言え、プールと違って50mごとにターン壁でサボれない。釣船屋で昼食を取り、疲れているので出席せずに、江ノ電、腰越駅からJR鎌倉駅経由帰宅した。わずか20分の江ノ電車内で居眠り。やはりかなり疲れていた。家に着いて完泳賞の白メタルを孫の首にかけて来年はおじいちゃんと一緒に泳ごうとけしかけた(まだ25mしか泳げない)。

オープン・ウオーター・スイミングは日本水泳連盟にも10年前から世界的に通用する規則が制定されている。 西山は今回の競技前に水連から入手して、検討した上で出場した。水連は70年史の折にも再々訪問し顔なじみである。トライアスロンの規則までは調べていない。スミマセン。しかし、競技場の設定は風速だけでなく他の諸条件も勘案して、競技可能か否かで判断されると思う。今回の風速は、その強さの為、行路のマークとなるブイの設置が不可能(ブイが風で流されて固定できないこと)が中止の理由のひとつに挙げられたということでした。他にカヤックも出せない、流されるということも言っていました。

競技の各距離別の記録を書こうとしたがうまく入力出来ないので省く。しかし、10歳の子が昭和7年の1500mロサンゼルスの天野富勝の19分55秒の記録より40秒も早いのには驚いた。当時は20分を割る超人的大記録と謳われたものだったが、スイミングクラブで鍛えたのだろうが、19分台が3人もいたのにあらためて感心した。

 ここに各距離ごとの成績を参考に掲出しようとしたが未熟でうまく転記できない。希望者は私にコピーを要求するか、日本財団のホームページを見て欲しい。

私が出場した1.5kmの上位下位20人づつの着順とタイムを掲げておく。トップグループに15歳で17分台、19分台に5人も10歳代の若者がいる。10歳で19分12秒だ。潮流が幸いしたのか,距離が短いのか実力があるのか素晴らしいタイムだと思う。ターンがないだけプールより遅れると思うのだが老人には驚異の記録と感じた。---- 下位20人では私が超最低で、マァ、諦めずにゴールしただけ良かった。プックリオネイチャンに最敬礼!

話が変わるが今回2005年1月25日付小惑星9870番に前畑という名前がつけられた。高知県安芸市の関勉さんが発見した小惑星1992DAという仮符号の小惑星が新発見と確認されての命名である。いうまでもなく昭和11年ベルリンオリンピック200m平泳で優勝した前畑秀子さんを讃えての命名であるが、日本でも、世界でもオリンピック優勝女子水泳選手で命名されたのは初めてかと思う。関さんはヴァイオリンの先生であり、芸西天文台台長であり、毎週お孫さんとプールに通う河童であります。私のタイムを聞いて「おそいですね」と言われる。(私も6245番に西山と命名して頂いたがこれは水泳ではなくて、小惑星の軌道調査研究に貢献したということで、私の水泳記録(戦争中昭和17年全国高等学校水上選手権、インターハイの800m自由形で全国優勝)を讃えたものではない、4年の周期で太陽を廻っている。ついでに筑紫という小惑星名もある、これはやはり関勉さんに1944年から1947年まで活動した筑紫天文同好会を記念して名づけて頂いたもの,7.8年の周期で太陽を廻っている。(小惑星前畑の周期は3.6年、西山は3.4年。いずれ近づく機会があるでしょう)。筑紫は戦争末期から戦後に掛けて私が主宰した会であるがこれも水泳を表彰してのものではない。個人的自慢話はこれでお仕舞い。

日本水泳連盟からの毎年度競技別20傑表彰バッジ(これは付録)

昭和10?-17年頃日本水泳連盟では、年度ごとにひとつの競技の日本人の年間ベスト20傑を選び、水の漢字を表徴した記念バッジを贈っていた。 昭和16年旧制福岡高等学校一期下の和田康夫君は私より800m自由形で15秒程早く10分50秒台でこのバッジを獲得していた。このバッジとはある年1年間の中で1競泳種目で全国すべての中からタイムの良い順に20位マデの人に日本水泳連盟が提供した水の字を表したバッジである。私は11分が切れず23位?だったか。戦争で途絶えた筈である。今どうなのかな。復活したかな。

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先輩寄稿文 S16年卒 豊田 高史先輩

国の力
                           S16年卒 豊田 高史

路上、子供を連れた女の人を見ると、国の力だと思う。今はむくつけき髭面の男となった者でも、幼い頃は母親の尻について廻り、一寸でもはぐれると大騒ぎをして、その姿を求めたものである。小さい頃から、胸に抱いてオッパイを飲ませてやり、ウンチから、オシッコの世話までして、この世でこれぐらい強い絆(キズナ)はない。この点男は外から一寸借りてきた様なものである。
 DNAからその他まで母と子はそっくりである。女は喧嘩はしない。国の力を養うために一心不乱である。この力がなければ人類は滅びるのである。『そんな面倒な事をするために私は生まれて来たのではない。』と言う女性が増えてきたそうである。それでは何のために生まれて来たのか。夫れ夫れの持ち分、夫れ夫れの役割があって、国の力は抜群となる。男は外で戦う為に、女は内で子を育てる為にある。昔兵役の義務があった頃には、軍医は兵科と共に戦場に出た。軍医がついていてくれると、士気が上がると言うのである。その点兵役に於けるランクは主計科より上であった。
 この平和な時代でも、子供を連れた女性は立派な国の力である。その子供達の中から、どんなに優れた人材が出てくるかは誰も知らない。その未知な処が、人々を引き付け、未来を明るくするのである。

投稿者 : 21:27 | コメント (0)

2005年06月08日

☆九国まであと3日☆

今日の練習後の整列・集合の写真です。
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残り3日、万全な体調で臨むために自己管理は徹底しましょう。


↓飛び込み↓
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2005年06月04日

九国合宿終了!!

全日程終了してしまい、片付けの写真になってしまいました。
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今回の合宿は皆さんにとってどのようなものになったでしょうか?如何なるものになっても、九国まで残り1週間を切りました。この残された日をどのようにするかでまた違った結果になるでしょう。という訳で、皆さん、このまま集中力切らさず盛り上がっていきましょう!!


話は変わりますが、写真のネタがないので、過去の写真を載せてみました↓


これは合宿中ではなく、先日の六大戦後の写真です。0490.JPG

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