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2005年06月17日
先輩寄稿文 S31年卒 中溝 忠夫先輩
随想
S31年卒 中溝 忠夫
投稿について連絡があった。昨年から通算し三度目にあたる。最初の連絡は九月十一日付けになっている。9・11はNY貿易センタービルへ自爆テロが突入した悪夢の記念日であり、私も心臓へ何かを打ち込まれた感じになった。「何か書かねば…。」と考えたのも束の間。検査入院だの手術のための入院だのと病に押され投稿を諦めた。その失礼に三度目の連絡を戴き、辛うじて投稿の栄えに浴する。
オレゴンからのそよ風
三月二十日午前十時五十三分、福岡市及びその近郊に居られた方は、御存知と思う。私達は思いがけぬ大地の洗礼を受けたものだ。私も例外ではない。座って何か書いていたので揺れは感じなかったが、近くに大きな爆発音が轟いた。しかし立姿で台所に居た家内は「随分揺れた。」という。私の家では家具が倒れた訳ではなく、花瓶などが落下し、並べてあった書籍が倒れた程度だった。家の内外をしらべてみたが大きな損傷とて無く亀裂を発見した程度だったのは不幸中の幸いか。余震は三月末現在、福岡市近郊でも感じられるものが時折あるが大きいものは無い。
今回の地震に、全国各地の従兄弟たち、下の部下などから見舞いの電話・ファクスを戴き感謝感激している。わけても家内から、「○○さんからお電話ですよ…。」と手渡された受話器から聞こえたのは小学校時の旧友○君の肉声。私は彼が多分横浜か東京あたりから電話して来たものと思い一応訊ねたところ「あー今、オレゴンから……」と返事が返って来た。オレゴンからなら時差も考えねばならぬだろうし、よく早々と日本のしかも九州で地震が起きた事を知ったのだろうと驚き、私の身を案じて電話までかけてくるとは……と感心した。
○君は小学校時代、私の家の近くに引越して来た。私の家は昭和二十年の東京大空襲の際焼夷弾を直撃して焼失したが、彼の家は彼の母と彼の姉が奮闘して延焼を喰い止めた。当時、彼の母上は音楽学校の先生(現在の上野音楽大学教授)をしておられた様だ。彼の家が焼け残ったので、私と母・弟の三人が、しばらく○家の御厄介になった。
○君は、東京の私立大学に学び卒業後は、証券業界へ進む。就職初期の頃は全く知らぬが、終わりに近くになって主に外資関係を取扱う部課を経て、諸外国勤務を経験したのではなかろうか。地球上各地の絵葉書に、彼からの「元気かい…」という投げかけ的な呼びかけが躍っている。私がそれに応じられる分の返事が書けぬのが残念だ。退耺後のこと、「今はベンチャービジネスをやっている。」と言っていたが、よく判らぬ。オレゴンに今居るのも日本の現在の実情に呆れ果て、今では却って寒く雪も多いだろうオレゴンへ行って了ったのだろうか。それにしても有難く、嬉しくて涙をこぼしそうになった。
ある同窓会にて
昨年六月、私は出身の小学校の同窓会(昭和二十年卒業者)に出席した。この同窓会に出席するのは実に半世紀を越えて初めての体験で、いささか心配はあった。
私の出身の小学校というのは、東京の目黒と五反田の中間にあり、品川区立第三日野小学校(卒業後当時は国民学校と稱した)という。深い谷底に横たわる感じなので、所謂円形のコースというのが無い。直線だけで、しかも百メートルは無い。かつてはコースの傍らに二十五mのプールがあったが、それも埋立てられたのか今は無い様だ。同窓会が始まる迄には多少時間の余裕があったので、小学校の周囲をうろついてみた。学校のそばには、今では池田山公園となっているが、私が子供の頃は西村という野村証券の重役が構えていた豪壮なフランスのお城と日本のお館を折衷した様な庭園付きのお屋敷があった。その庭園は私達が子供の頃は、教練を受けて来たらしい。そのお屋敷のお兄様から、戦闘訓練的な仕草を何彼と鍛錬されたことを思い出した。私が六年間を送った小学校は、一学年が三個のクラスで編成されており、一組は男子、三組は女子、そして二組は男女混合成組だった。私は二組に居た。個人的に特に希望して組を移ることはなかったが、先生が病気などで長く休まれた場合は、二組の男子は一組と、女子は三組と合併することが度々あった。昭和十九年、私たちが六年生の時、全国主要都市への空襲が激しくなるばかりで、東京でも蜜某した家屋の強制疎開や、小学三年生以上の学童を縁故疎開か集団疎開かで地方へ分散を始めた。私は熊本の親戚へ縁故疎開を考えたが、危ないとの事で集団疎開に追求した。集団疎開の宿舎は、東京都下の御嶽町の御嶽山の山裾に連なる斉館分舎だった。斉館分舎というのは御嶽山詣でに来る人々が宿泊する旅館の様なもの。勉強は山の上にある斉館分舎に学年ごとに集まり、寺子屋式に授業を受けた。一同で声を掛け合い自ら山越えして薪や野菜を背負い運んだこともある。さてその“五十年ぶりに出席した同窓会”だが、JR目黒駅近くに稚叙園という料亭があり、そこで行われた。フロントに「第三日野の同窓会に来たものですが‥‥」と言ったら、大きな円形テーブル二個をしつらえた部屋へ案内してくれたが、既に到着し席に着いて何事か話している人達も居た。男性ばかりのテーブルは、多分一組出身の人々だろう。私はもう一つの、女性ばかりのテーブルの方に着いた。周囲に二組出身の方が何人か居たかと思うが、実のところ兎にも角にも昭和二十年まだ子供の時分に別離して以後全く初めて顔を合わせた訳なので、誰が誰なのか判別がつかず、弱ったことになったと思った。今にして思えば誰と何を語ったのかもよく記憶せぬ始末で残念なことだった。ただ一つ男性ばかりのテーブルの方から、一人私近づいて懐かしそうに話しかけてきた男があった。記憶を辿ればその小学校から私と彼の二人だけ、一中(現在の日比谷高、当時の府立第一中学)へ進み一緒に勉強したことがあったっけ。私と彼の話も、開会を告げる誰かの声で遂にとぎれて了った。二組出身の男子が誰も来て居なかったのは残念だった。この後の経過がどうなってるのか記憶に残らず、多分逆上したあまり半世紀あまりのフィールド・バックは困難だったに違いない。学年同窓会終了後、二組だけでクラス会でも…と一応考えたがこれもどさくさに紛れて了った。
この同窓会開催について終始御連絡戴いた二組のかたには、会場でも御礼を申し上げたつもりだったが、まだ申し足りなかったやもしらぬ。私は運命とは申せ、小学校卒業後、東京を離れざるを得ず、現在九州に存在する身であり乍ら、今なお小学生時代を忘れ得ずして生きている。また機会に恵まれれば是非参加させて戴きたいものだ。
スペイン・ポルトガル紀行
「…兒孫ノ為ニ美田ヲ買ワズ…」とは西郷南洲翁の名言。私は“美田を買う”どころか生きるのがやっと。家内と謀り「借財は決してしまい。子孫に借りを引き継ぐことなどしない。ただし貯金にはげみ将来へ託すことなど一切せぬ。」とおかしな我が家の経済原則を樹立し、暇と資金は旅行に廻す。最近では寄る年波には勝てぬもの、身体がついていかぬので旅行には疎遠となって了ったが、若い人よ!元気あるうちに見るべきものは見ておくものだ。
今のところ最後の外国旅行となったスペイン・ポルトガルについて少しふれる。イラク戦争開始前後から空港の持込荷物のチェックが厳重になった。スペインへ行くには、羽田を出発後、ロンドンでスペイン行きに乗換えとなるが携行手荷物を広げて検査を受けねばならなかったのは、全く初の体験だった。
スペインの首都マドリッドに深夜到着。翌朝、聖家族協会を観る。天才建築家ガウデイの傑作だが修築中で、完工まであとどの程度かかるは判然としない。ラ・マンチヤでは印象的な白い風車が紺青の空に聳え美しかった。このあと訪れたグラナダはイスラム文化が残っており、私の見たところヨーロッパ文明とイスラム文明の接点という感じだ。それはアルハンブラ宮殿にも見ることが出来る。更にアンダルシア地方で白い壁の家の密集に接する。その夜はフラメンコ・ディナーショーを観た。旅行のしめくくりは、ヨーロッパ大陸最西端のロカ岬で、岬の先端にはヴァスコ・ダ・ガマ一行のモニュメントがあったのも印象的だった。スペイン・ポルトガルを私なりに総括したところ 1、未開発の土地が多い。 2、草原・森林が比較的多く見られる。 3、住民①良い意味で感情的である②体格が良い③夫唱婦随と見る。 4、世界遺産が多い。 5、キリスト教とイスラム教の融合或いは、ヨーロッパ風とイスラム式の融合ではないかと見られる建築物・構造物に接する。となった。
今後また機会と資産に加え健康さえ許せばどこか探求したいものだ…と思っている。
ある歯科医師の“学歴詐称?”
かつて私が勤めていた所には歯科医は居られず診察の結果指定された歯科医へ往っていた。私の歯が上顎・下顎ともに痛み出し、手に負えなくなり、診察を受けて指定された歯科医へ行ったのが、そもそも間違いだった。
指定された歯科医の玄関にはアメリカのどこかの大学の卒業証書らしいものが額にいれ而もライトを浴びて掲示されていた。通常の患者は多分見た丈で圧倒されるに十分だろう。どこの大学生なのか、DENTAL関係の経歴も踏んだのか確認すべきだったが、痛みでそこまで考え及ばぬ。診察の座席に腰かけ暫らく待つと金縁の眼鏡を光らせて“先生”が来た。私の口を見るなり「ああこれは悪い。抜きましょう。あとは義歯にします……」とばかり上下とも何本か残った歯を抜いて了った。その夜は抜歯の痛みで、その病院へ電話までかけねばならぬ始末だった。
その歯科医院は、義歯等製作の作業が病院の裏手に在り、フル回転していた様だ。私の上顎に辛うじて残っていた何本かは、残らず抜かれて、義歯が冠され、今なお容易に外れ弱る。現在に至るまで他の歯科医にお願いすること三度。造り替えても、まだ完成していない。下顎は、ブリッジが大きく巾を占めたが、
近々取替えとなる。
私としては、初めその歯科医の門を潜った際に、米国大学出身の卒業証書は一見したが歯科医師のライセンスは確認していない。その歯科医周辺の患者で私と同じような被害を受けた人が数多く、やはり同じ疑念を抱いて居ると聞く。しかし歯科医御本人は、すでに他界して居られる現在“ことの本質”をこれ以上追及しても結果は出まい。もって瞑すべしというところか…。
投稿者 : 2005年06月17日 21:37